カミユは大作「ペスト」を発表する以前に、いくつかの文学的エッセイと、小説「異邦人」、哲学的エッセイ「シジフォスの神話」、他戯曲数編を発表していた。
これら初期の作品において、カミュが人生の問題、特に幸福の問題をどのように考えていたのかを知ることは、この論文の主要なテーマである【ペストに見るカミユの幸福観】を理解してゆく上で重要なことと思われる。従って、ここに「ペスト」以前のカミュを見るための短い一章を設けることにした。
しかし、「ペスト」以前の作品すべてについての考察は、種々の都合上困難であり、またそれは、この論文の直接意図するところではないので、この章では単に、「シジフォスの神話」を中心とした【不条理】の概念の説明と、そこに見られる幸福観についての簡単な考察だけにとどめるつもりである。
【シジフォスの神話から】
「不条理を発見したものは、だれでも、なにか【幸福への手引き】といったものを書きたい気持ちになるものだ。幸福と不条理とは同じ一つの大地から生まれたふたりの息子である。このふたりは引き離すことが出来ぬ。幸福は不条理な発見から必然的に生まれると言っては誤りであろう。幸福から不条理な感情が生まれるということも、たしかにときにはあるのだ」
カミュは、その哲学的エッセイ「シジフォスの神話」の中でこのように述べている。従って、幸福というテーマがここでも大きな位置を占めていることは疑いを入れない。「シジフォスの神話」は、カミュが彼の不条理観を説明するために書いたものである。それは次のような言葉で始まっている:
「真に重大な哲学的問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」彼は不条理性について、さまざまな角度からの論証と、具体的な事実の列挙を試みているが、それらのいっさいは、この問題に集約されよう。そしてこの「人生が生きるに値するか否か」の問題は、そのまま人間の幸福の問題につながるものである。おぼろげにであれ、上記の問題に何らかの肯定的判断を下すことができるならば、それは幸福への糸口となるであろう。しかしもし、下された判断が否定的なものであるとしたら、幸福は不可能のように思われる。これらの問題に、カミユは如何なる判断をもって対処したのであろうか。
まず不条理の発生、不条理の諸相について、カミュの鋭い観察のあとを辿ってみよう:
「どんな偉大な行動、どんな偉大な思想も、その始まりはささやかなものだ。偉大な作品が、とある街の曲がり角で、とあるレストランの回転ドアのなかで生まれることがよくある。不条理性についても同様である・・・起床、電車、会社や工場での四時間、食事、電車、四時間の仕事、食事、睡眠、同じリズムで流れてゆく月火水木金土、ー こういう道を,大抵のときはすらすらと辿っている。ところがある日、「なぜ」という問いが頭をもたげる。すると、驚きの色に染められたこの倦怠感のなかですべてが始まる。「始まる」これが重大なのだ・・・それに続く運動、それは、あの日常の動作の連鎖への無意識的な回帰か、決定的な目覚めか、そのどちらかだ。そして目覚めの果てに、やがて結末が、自殺かあるいは再帰か、そのどちらかの結末が訪れる。・・・・・現在ぼくらの前には、ただひとつのこと、世界のあの厚みとあの奇怪さだけがあるのだが、それが不条理だ。・・・ぼくの心にほかならぬこの心、それですら、ぼくにとっては永遠に定義不能のままだろう。自分がたしかに存在しているということについての確実さと、この確信にぼくがあたえようと試みる内容、そのあいだの溝は、いつまでもたっても決して埋められることはないだろう。永久に、ぼくはぼく自身にとって異邦人であるだろう。・・・今やぼくは理解している、なるほど、ぼくは科学によって、さまざまな現象を捉え、それを列挙することはできるかも知れないが、だからといって、世界を把握することはできないのだということを。・・・自分自身ともこの世界とも断絶した異邦人であり、しかも自分を救い出すための武器としては、なにかを断定するや否やたちまち自らを否定することになる思考しか身に帯びていない、そんなぼくが平和を得るためには、知ることと生きることを拒否するしかないこの状態、征服への本能的欲求が壁にぶつかり、いくらそれに襲い掛かっても跳ね返されてしまうこの状態、これはなんという状態だろう・・・したがって、知力もまたそれなりのやり方で、この世界は不条理だとぼくに語り掛けてくるのである…世界は不条理だとぼくは何度も語ったが、ぼくは言葉を急ぎ過ぎたようだ。この世界はそれ自体としては人間の理性を超えている・・・この世界について言えるのはこれだけだ。不条理という言葉の当てはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴り響いていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。不条理は人間と世界と、この両者から発するものなのだ」
以上の不条理性についてのカミユの説明は、何らの異論をさしはさむ余地もないほど明解である。このように、すべてが不条理であると悟ったとき、人間は、人生がそれでもなお努力をつづける価値があるのかどうかを判断せねばならない。不条理を前に、人間は二者択一を迫られているのである。すなわち、自殺するか、不条理を見つめつつ生きるか、のいずれかである。しかし、そこから回避することは可能である。超越、希望、あるいは宗教へと飛躍することも出来る。だが、カミュにとり、この飛躍は逃避であり、闘争を避けようとする巧みな方便にすぎない。彼の関心のすべては、「上訴の可能性なしに、これっきりのものとして生きることが果たして可能か」ということである。「言い換えれば、不条理の問題にあらゆる超越的解釈を拒否すること、そして人生に意義がないことを知ったとき、人生はどのようなものになるかを見つめようとすることが問題となっているのである」。ここにおいて、質のモラルはもはや退けられ、「量」のモラルが問題となる。すなわち、「可能な限り生きる」ということが問題となるのである。ドン・ファンの生、喜劇役者の生、征服者の生は、この「量」のモラルの上に打建てられた生を象徴している。彼らは、不条理をなくそうとはせず、不条理とともに生きようとする。そして、そこに人間の偉大さと幸福とを見出すのである。
「こうして、世界の不条理性を支え続けることには、言わば形而上的幸福がある。征服あるいは演技、数え切れぬ愛、不条理な反抗、これらは、人間が戦わぬ前からすでに敗北とわかっている戦場で、あえて戦おうとする人間の尊厳に捧げる頌なのである。重要なのは、戦闘の規則に忠実であるということだけだ。この思想だけで精神を養うのに充分である。この思想がこれまであらゆる文明を支えてきたし、今もなお支えている。戦争は否定されない、戦争に死ぬか、戦争を呼吸して生きるか、そのどちらかがあるだけだ。不条理についても同様だ」
したがって、頂上をめざして無益な闘争を繰り返すシジフォスは、この論理を生きた人物であり、シジフォスは幸福を見出しているということになる。しかし、この無限に繰り返される ー 繰り返しであって統一ではない ー 否定的な反抗、愛のない孤独な反抗をつづけるシジフォスの幸福は、本当に幸福なのだろうか。「頂上をめがける闘争ただそれだけで、人間の心を充たすのに充分たりるのだ。いまやシジフォスは幸福なのだと思わねばならぬ」と作者は我々に語る。しかし、我々は知っている、シジフォスは幸福ではないし、また幸福ではあり得ぬことを。なぜなら、シジフォスの目指す頂上は、「アルピニスト」の目指す頂上のような「目的」をなすものではないからである。彼の闘争は、明日という未来も希望もない「虚無的」な闘争である。「人間は憎悪と別離とを永遠に受け入れつつ生きてゆくことはできない。作者が我々に、否定的な反抗の闘士を、人間的な人物の中にではなく、神話的な人物の中に示そうとしたのも、おそらく、そのことのゆえにであろう」とP.N.ヴァン・ユイは、彼の「形而上学」の中で述べている。
カミュが、無益で希望のない永遠の労働を神々から懲罰として課せられた不幸な男シジフォスを、あえて「幸福なのだ」と主張している点は興味深い。これは「人生には、絶対に如何なる意義もないと仮定したら、幸福になろうとし、また幸福になるべき人間には、何が残されているのだろうか?」という問いに答えるために、カミユが無理やりに抽き出した論理の上でだけの帰結にすぎぬように思われる。
以上略述した「神話」における不条理、及びシジフォスの幸福の問題は、「ペスト」に示されたカミユの人生観、幸福観を考える上で、重大な要素をなすものと思われるが、しかし、私としては、両者を直接に結び付けて考えるつもりはない。「ペスト」をよりよく理解するための、いわば背景布としてとどめておきたいと思う。
(つづく)