~人間中心主義的な幸福~
カミュが人間との結びつきの中に、人間の連帯と愛との中に見出した≪人間中心主義的≫な幸福は、さらに幾つかの段階を含んでいる。まず、人が性愛の中に見出す幸福、オランのペスト患者のそばに依然として留まることを望まず、人間の連帯よりも、自分の個人的な恋のほうを選んだ≪第一のランベール≫のそれである。
新聞記者ランベールは、思考することよりも生活することに関心を抱き、スポーツを愛好する現代的な青年である。ある日、彼は、アラビア人の生活条件について現地報告記事を書くために、オランに単身でやって来たのであった。彼はフランスに愛する恋人を残して来ていた。ところが、オランで、彼は思いがけずペストにとり込められてしまうのである。市の閉鎖が宣言され、愛する人との別離を余儀なくされたと知ったとき、彼のとった態度は、この事件は自分には関係がない、従って、自分の場合は特別に考慮されるべきだと主張することであった。しかし彼は、やがて、ペストの如き災害の中では、もはや特例などというものは存在せず、従って、合法的な手段でこの町から出ることは不可能であることを知る。そして再び、今度は、コタールという闇取引の男を仲介として、非合法な手段での脱出を試みるのである。この頃のランベールは、幸福に対する彼個人の権利を守ることに夢中であった。それをリューとの会話の中に見ることができる:
「いや、わかってます、つまり公益のための職務っていうことを言われるんでしょう。しかし、公共の福祉ってものは、一人ひとりの幸福によって作られるんですからね」
しかし、その個々の間には絆が、すなわち愛の絆があるべきである。それは、一組の男女の感性的な愛でもって説明される類のものとは、質を異にするものなのである。たとえ、感性的な愛による幸福が寄り集まっても、それだけで公共の福祉を形成することはできないであろう。ランベールは、未だこのことに気がついていなかった。
「ややあって、医師は頭を振った。あの新聞記者の、幸福への焦りは無理もないことだ。しかし彼が自分を非難するのは無理のないことだろうか?あなたは、抽象の世界で暮らしているんです・・・抽象と戦うためには、多少抽象に似なければならない。しかし、どうしてそんなことがランベールに通じえたであろうか?抽象はランベールにとって、およそ彼の幸福と相反するものであった」
ここで言う抽象とは、個人的な問題を超えて、つまり、自己の幸福の具体的な形態が、人間と人間との愛情とか責任、義務とかいったものによって変形され、より広い全人類的な方向へと向かうものである。この言わば≪連帯の幸福≫をランベールは抽象として拒絶した。しかし、だからといって、医師リューはランベールを非難するわけではない。むしろ、ランベールの奔走を好意的な目でながめているのである。リューには、ランベールの幸福を求める気持ちが、あまりにも手に取るようにわかるからであった。人が個人的な幸福のほうを求めることに反対する論拠を、彼は持っていなかった。
「ところで、どうして、あなたは僕を行かせないようになさらないんです?そうする手段はおありなのに、とランベールがたずねた。リューはいつもの仕草で頭を振り、そして、これはランベールの問題であり、ランベールは幸福のほうを選んだわけで、リューとしては、それに反対する論拠はない、と言った」
ペストにとりこめられている志願の保険隊の中で、タルー、リュー、グラン等とともに過ごすうちに、ランベールのなかで、少しずつ何ものかが変化していった。もはや、自己の官能的幸福を求める≪第一のランベール≫ではなくなりつつあったのである。いよいよ脱出が実現可能というときになって、ランベールは、リューやタル―と共に留まることを決意する。ただ、彼は「自分一人が幸福になると言うことは、恥ずべきことかも知れない」ことに気付いたのである。ここで『誤解』におけるジャンの「幸福がすべてじゃない、人間には
義務がある」と言う言葉を思い起こすことができる。このときのランベールは、ジャンの分身とも言えるのではなかろうか。かくして、≪第二のランベール≫が生まれる。そこまでに至った過程を、ランベールはこう説明する:
「僕はこれまでずっと、自分はこの町には無縁の人間だ、自分にはあなた方は何の関わりもないと、そう思っていました。ところが、現に見たとおりのものを見てしまった今では、もう確かに僕はこの町の人間です、自分でそれを望もうと望むまいと。この事件はわれわれみんなに関係のあることなんです」
この≪第二のランベール≫の態度は、そのままリューの態度でもあった。リューは、脱出を断念したランベールに「幸福のほうを選ぶのになにも恥じるところはない」と言い、また、「自分の愛するものから離れさせるなんて価値のあるものは、この世になんにもない」ことを知りながら、彼もやはり幸福に背を向けているのであった。彼の妻が、ペストの発生する直前にサナトリウムにむけて出発したそのとき、すでに彼は、自分の個人的な幸福、愛し合う者同士の幸せな生活というものを取り落してしまっていた。それは、リューが、恐らくオランの無垢な人々のために供した犠牲であったのである。「他人の幸福のために、自己の幸福を犠牲にするまでに押しやられたこの連帯意識は、カミュの思想の新しい範疇である。他人の幸福に対する責任、そういったものが、リューの本質的な心遣いである」(シャルル・ムレー)。
今や≪連帯≫を意識するようになった≪第二のランベール≫、そして善良なグラン、及びタル―らと共に、リューは忠実に己の職務を遂行してゆく。しかし、彼の行動には如何なる客観的な理由もない。彼にわかっていることは、ただ、今ある現実に対処するために、為すべきことを為さねばならぬということだけである。
以上、≪人間中心主義的≫な幸福は、まず性愛のなかに幸福を見出した≪第一のランベール≫、次に人々との連帯のなかに幸福を見出そうとした≪第二のランベール≫と、リューとによって説明される。
(つづく)