さて、カミュが追求した第三番目の幸福、すなわち≪形而上的幸福≫は、タル―という人物のあとを辿ることによって、その如何なるものかを理解することができる。
しかし、そのタル―と言う人物を研究する前に、『ペスト』というタイトルの持つ意味について、簡単に触れておきたいと思う。これは単なる医学的意味での流行病ペストを表しているだけではない。そこには、いくつかの寓意が含まれている。その第一は、外界から遮断されたオランの人々が味わう≪追放と別離≫の感情であり、これは四年間の占領時代、肉体的、精神的に幽閉されたヨーロッパの人々の生活感情を暗に示している。第二は、オトン判事の息子の死に代表される、罪なき者の苦しみという、この世の≪不条理≫である。そして第三は、タル―の指摘する人間の持つ≪精神的な悪≫である。この≪精神的な悪≫の問題は、第三の形而上の幸福と不可分の表裏一体をなす問題であるので、タル―を通じて、両者を平行して追ってゆこうと思う。
ジャン・タル―というのは、ペストの期間中ずっとリューやグランらと共に、その中心となって献身的に働くことになる人物であるが、実は彼は、ランベールと同様、この町の人間ではない。ペストの発生する数週間前にオランに居を定め、そのときから、中央のある大ホテルに住んでいた。彼は一見、ただの旅客のようにも思われたが、また、全然そうでないようにも思われた。彼が、どこから、なんのためにやってきたのかを知る者はなかったが、彼の姿は、公衆の集まるあらゆる場所に見出すことができた。
彼はリューといっしょにペストと戦っていたが、ある日の夕方、リューに自分の心を打ち明けるのである。このひとときは、タル―にとってもリューにとっても、ペストから解放された、言わば,≪友情のひととき≫である。タル―の青春は、貧困を通して人生というものを学んで来たリューのそれとは異なっていた。次席検事の息子であったタル―は、若い頃を清浄潔白のなかで暮らした。すべてが順調で何の不安もなかった。ところがある日、彼は反省し始めた。それは父親の論告を聞きに法廷に行ったときのことである。法廷で彼の心を捉えたものは、父親の立派な法服姿でも、その雄弁さでもなく、哀れな被告の姿であった。おびえ切って、ただ右手の爪ばかりをかじっていたこの赤毛の男を、タルーは、≪生きている≫と感じた。しかし、裁判は、生きているこの男の首を要求していた。被告に対する≪死刑の宣告≫というものを感じるや、彼は本能的に被告の味方となるのである。それ以来、彼の関心の的は≪死刑宣告≫ということであった。
やがて彼は、家を出て、この≪死刑宣告≫、すなわち≪殺人≫と戦うために、革命家たちの組織に加わり、いわゆる政治運動をやるようになる。しかし、そこにおいても、理想とか革命とかいった名の下に、銃殺や投獄が行われていることを目撃したタル―は、如何なる善意も、イデオロギーという衣を被ることによって、必然的に≪死刑宣告≫を行うに至るということを知ったのである。「カミュの不変性、それはあらゆるイデオロギー、あらゆる≪神話≫に対する嫌悪である」とシャルル・ムレーは指摘している。やがて彼は、人間はお互いに危害を加えて暮らしており、それゆえ、どんな人間も決して清浄潔白ではありえないことを意識する。
「時がたつにつれ、僕は単純にそう気がついたのだが、ほかの連中よりりっぱな人々でさえ、今日では人を殺したり、あるいは殺させておいたりしないではいられないし、それというのが、そいつは彼らの生きている論理のなかに含まれていることだからで、われわれは人を死なせる恐れなしにはこの世で身振り一つもなしえないのだ。まったく、僕は恥ずかしく思い続けていたし、僕ははっきりそれを知った ー 我々はみんなペストの中にいるのだと。そこで僕は心の平和を失ってしまった」
(つづく)