タル―が死の中で、もはや役に立たなくなったときに見出したと思われる≪心の平和≫とは、如何なるものを指すのであろうか。タル―の死は、なんら具体的な回答を含んでいないために、それを明確に探り当てることは困難である。タル―が死の床で、なぜ「今こそすべてはよいのだ」と言い、「そのやつれ果てた顔が、唇を固く結んでいるにもかかわらず、再びほほえんでいた」のであろうか?
タル―が究極において手に入れたもの、そして、つまりはカミュ自身が心の底から探し求めていたものは、どういう言葉をもって表現されるべきなのであろうか。タル―と同じように、カミュもまた、不慮の事故で死亡した。求めていたものを手に入れたかどうかを語らぬままに。したがって、私はそれを、彼の残した作品を通して推し測るしかないのである。
カミュの追求した幸福を、私は便宜上三種に分けて説明してきた。しかし、これらは単にそれだけのものとして、別々に考えるべきものではない。これらは密接につながりあって、一つのカミュ的幸福観を形成しているのであり、そして同時に、彼の思想の発展過程を示すものなのである。「カミュの幸福は、その実現のために、苦行精神を要求するもので、P. T. de シャルダンの言うように、高まりゆく幸福、もしくは生長の幸福である。だがしかし、それは宗教的な幸福ではない」とP.N. ヴァン・ユイはその宗教的性格を否定する。しかし、この≪宗教的≫という言葉は、語の解釈それ自体に多くの難しい問題を含んでいる。それ故、宗教性の有無について一概に判断を下すことはできないのではなかろうか。おそらく、P. N. ヴァン・ユイは彼なりの≪宗教≫解釈を行い、それに基づいて否定したものであろう。しかし私としては、探求の途上にてこの世を去ったカミュの幸福の最終的形態を私なりに、宗教的問題として扱ってみたいと思うのである。人生の問題に、あれほど真摯に取り組んだ人間が、宗教に無関心であったはずはなく、また、人生に深く悩み苦しんだ人間が、その心のどこかで、この世ならぬものの存在を求めたであろうことは、当然考え得ることだからである。
第二章:宗教的な問題設定
カミュの幸福を、宗教的な問題として捉えることはできるか、これは難しい問題である。カミュ自ら、いわゆる神を否定している以上、宗教が、典礼とか教義、及び何らかの形で≪世俗≫を離れた、特殊な領域のものと解されるものであるならば、カミュの幸福もまた、明らかに宗教の入り込む余地はない。しかし、もしも宗教が「人間の精神のすべての機能における深みの次元のことである」(J.A.T. ロビンソン:「神への誠実」)とするなら、カミュの幸福を一つの宗教的な問題の中に設定して、考えることも許されるのではないだろうか。
第一節:超越への郷愁
人間は幸福になるためには、普遍的な合体が必要である。人間は、自分と同じものとの合体だけでなく、自分より偉大なものとの合体が必要なのだ(P.N. ヴァン・ユイ)
タル―の死とリューの母親のイメージ
死の床で、タルーに「今こそすべてはよいのだ」と言わしめたもの、これを探ってゆくことが、さしあたり≪心の平和≫を説明する鍵となるものではなかろうか。
リューの母親は、タルーをその苦しみの間じゅう見守っていた。
「タル―はリュー夫人のほうへ首を向けていた。彼は自分のそばの椅子にかがまって、膝の上に両手を組み合わせている、その小さな影をじっと見つめていた。そして、その見つめ方が実に強烈だったので、リュー夫人は、その唇に指を当てて見せ、立ち上がってナイトランプを消した。しかしカーテンの向こうには、光線が急速に浸透し始め、そして間もなく病人の顔の輪郭が闇の中から浮かび出たとき、彼が相変らず彼女の姿を見つめているのを、リュー夫人は見ることが出来た。彼女は彼のほうへ身をかがめ、長枕を直してやり、それから身を起こしながら、ぬれてもつれた髪の毛の上にちょっとその手を置いた。するとそのとき、彼女の耳に、遠くから響いて来る、かき消されたような声が、ありがとうと言い、いまこそすべてはよいのだというのが聞こえた。彼女が再び腰をおろしたときには、タル―は目を閉じてしまっていて、そのやつれ果てた顔は、唇を固く結んでいるにもかかわらず、再びほほえんでいるように見えた」
タル―にとり、リューの母親の姿は、沈黙と慎ましさと、そして、彼にとりあれほど願わしいものであった、かの≪平和≫とを兼ね備えた姿のように思われたのであろう。苦悩と死とが支配するこの世界で、人は外界から押し寄せる害悪に対してばかりでなく、人間が自己のうちに持つ悪に対しても戦わなければならない。絶えず悪を意識し、悪から身を守ろうと気を張りつめている人間、その人間にとって、死は悪や苦悩以上に受け入れがたいものである。死は我々にとって、全くの未知の世界、死への旅へ赴いたら、二度と帰って来ることのできない世界である。死は≪閉じられた扉≫なのだ。苦悩とともに、その≪死≫をも平静に受け入れさせてくれるような沈黙と平和の秘訣を、タル―は死の間際に、リューの母親の姿に見出したのである。タル―によれば、「彼女は決して考えることなく、しかもすべてを知っており、そんなにひっそりと陰にうずもれていながら、どんな光線にも、たといペストの光線にであろうとも、りっぱに堪えることができる」のであったから。彼はさらにこう続けている:
「私の母もそんなふうであった。私は母の同じような慎ましさを愛していたし、母こそ、私がいつもその境地に達したいと思ってきた人間である」
タル―がいつも達したいと思ってきたその境地とは、≪直観と超越≫の境地であり、この世のいっさいのもの、ー 生も死も、幸も不幸も ー を包含しながら、それらを超えて、ゆるぎない平和を得ているところの境地である。この世のいっさいのものを包み込み、しかもそれらを超越するようなものは、ここでは≪母親の愛≫によって象徴されている。この≪母親の愛≫は単なる感性的な人間の愛情だけでは説明され得ない。一人の人間の苦悩や死は、決して感性的な愛情だけで支えられるものではないからである。シャルル・ムレーは、これを≪聖母マリアの愛≫と言っている。
(つづく)