第二節:聖徳への路

人間に対してなされた不当な悪≪ペスト≫に抗し続ける一団のオランの人々の間で、リュー、タルー、グラン、そしてランベールは、その中心となって働いた。彼らは、その目指すところは違ってはいたが、たがいに目に見えない連帯と愛という絆で結ばれていた。
なかでも、リューの心を捉えている問題は、≪人間であること≫であり、タル―のそれは、≪神によらずして聖者になりうるか≫ということであった。一見したところ、二人の目指す世界は全く別の世界であるように見える。が、果たして、両者はそんなに違うものなのだろうか。それとも、二人は同じ世界を目指しているのであろうか。このことについて、二人の歩みを見てゆこうと思う。

人間であること
― リューの立場

妻の病状が思わしくないという知らせを受けながら、なおもペストのなかにとどまり、人々の治療にあたる医師リュー、彼がそこにとどまらなければならないという客観的な理由はない。その気になれば、オランを離れ、妻のもとに行くこともできたのである。にもかかわらず、リューをオランに引き留めるものとは、一体なんなのであろうか。それは、彼自身にもわからない:

「しかし、僕にもそれはわからないんだ。・・・自分の愛するものから離れさせるなんて値打ちのあるものは、この世になんにもありゃしない。しかもそれでいて、僕もやっぱり、それから離れてるんだ、なぜという理由もわからずに。これは一つの事実だし、つまりそれだけのことだ」

唯一の明白な理由は≪誠実さ≫ということである。彼はただ、誠実な人間であろうとしたのである。献身的行為も、犠牲的行為も、すべて、彼の誠実な人間らしさから、人間に対する誠実な愛の心から行われているに過ぎない。ペストの最中にリューの求めていたもの、それは、英雄主義でもなければ、大仰な人類の救済でもない。人間的な温もりを、そして同時に人間の健康を求めていたのである。「人類の救済なんて、大袈裟すぎる言葉ですよ、僕には。人間の健康ということが、僕の関心の対象なんです」と言って、パヌルー神父の救済という言葉を否定した彼は、つつましい吏員グランや、官能主義者ランベール、そして人道主義者タル―らとのあたたかい人間的な交わりのなかに、心の安らぎを見出していた。

結局、リューの求めているのは≪人間であること≫である。英雄主義よりもグランのような人間の善意を、タル―のいう聖者の徳よりも人間の愛を求めているのである:

「しかし、とにかくね、僕は自分で敗北者のほうにずっと連帯を感じるんだ、聖者なんていうものよりも。僕にはどうもヒロイズムや聖者の徳などというものを望む気持ちはないと思う。僕が心をひかれるのは、人間であるということだ

この≪人間である≫とはどういうことを指すのであろうか。これについて、リューの態度から判断して言えることは、彼が人間同士の結びつきと愛とによって、≪人間であること≫という自己の目的を貫こうとしたということ、そして世界の悪に対するリューの怒りと反抗は、すべて深い人類愛に根ざしているということである。特にリューが、「これは自分の暮らしている世界にうんざりしながら、しかもなお人間同士に愛着をもち、そして自分に関する限り不正と譲歩を拒む決意をした人間の言葉である」と語るとき、そしてまた、泣いている老人を前にしたときの彼の心の叫びを聞くとき、それはいっそう明らかなものとなる ー 「愛のないこの世界はさながら死滅した世界であり、いつかは必ず牢獄や仕事や勇猛心にもうんざりして、一人の人間の面影と、愛情に嬉々としている心とを求めるときが来るのだ・・・リューは口がきけないで、頭を振ってうなずいた。この悲嘆は彼の悲嘆でもあり、このとき彼の心をかきむしっていたものは、すべての人間がともにしている苦痛に対したとき人間の心に生ずるはてしない憤りであった」

この、人間同士の連帯と愛をとおして≪人間であること≫という自己の目的を貫こうとするリューの生き方は正しい。ヴィクトール・フランクルによれば、「人間であるということは、常に自分以外の誰かに心を向けていることを意味する」のであるから。しかし、このフランクルの言葉は、さらに大きな意味にも解することができる。つまり≪自分以外の誰か≫とは、自分と同等の誰かのみならず、≪自分より偉大な何ものか≫をも意味しているという解釈である。フランクルの言葉を狭い意味に解するならば、リューの生き方は、まさに人間たるにふさわしいと言えよう。

(つづく)