― タル―の立場
人間は誰でもその心の中にペストを持っていること、「人を死なせる恐れなしにはこの世で身振り一つなしえない」ことを発見したタル―は、それ以後、悪や苦悩や死を正当化する一切のものを拒否しようとした。「この≪人を死なせる恐れ≫なしにはこの世で身振り一つなしえないことの発見は、聖徳の出発点にある一つの体験である」とシャルル・ムレーは言っている。実際、タルーが拒絶によってめざしたものは、聖人になること、それも神を信ずることなくして聖人になることである。
「結局、と淡々たる調子でタル―は言った。僕が心をひかれるのは、どうすれば聖者になれるかという問題だ。
だって、君は神をしんじてないんだろう。
だからさ、人は神によらずして聖者になりうるか ー これが、今日僕の知っている唯一の具体的な問題だ」
リューが≪人間であること≫を彼の関心事としたのに対し、タルーが≪神なき聖人たること≫を唯一の関心事としたことには、それなりの理由がある。リューとランベールとは人間の悪意について無関心でいたわけではないが、とりわけ世界の苦悩というものに心を奪われていた。二人は他の人々は幸福でないのに自分が幸福になるのだと思うと良心の呵責を覚えるのだ。従って、リューの感情は同じ経験をしている人間の連帯の感情なのである。ところが、タル―の感情は、culpabilite(罪状)の感情であった。人間が自分のなかに持っている悪の観念がタル―の心をつきまとって離れなかった。だからこそ、タル―にとり、神なくして、我々はどうやって再び無罪を見出すことが出来るのか、ということが問題であったのである。「タル―がリューと違うところは、彼があらゆる悪から自己を清めようとし、自分の人間の条件を超越しようと努めた点である」とジェルメーヌ・ブレは言っている。
ところで、人間の条件を超越することは人間らしさの全的否定を要求するものであろうか?聖人になることは、人間らしさを減らすことを意味するのであろうか?そうではない。実はタル―が≪神なき聖人≫という言葉で表現したことは、≪人間であること≫に等しいのである。リューとタル―はともに、この世における人間の苦悩と言うものに目を向け、あの世的存在としての神を否定した。そうした彼らにとって問題であったのは、ペストの如き限界状況のなかにあって、なお≪人間であること≫なのである。リューと同じく≪人間であること≫を求めながら、あえて≪神なき聖人≫と表現せざるを得なかったタル―の真意を理解しなければならない。世界の悪に目を向けていたリューと異なり、タルーは、すべての人間が自己のうちに持つ悪の問題に悩まされていた。人間のこの宿命的な悪の問題、いわば神のない原罪の問題に直面して、タル―はあるがままの人間としての自己を超越する必要を感じたのである。タル―が聖人という言葉で表現しようとしたものは、恐らくこの自己超越ということであろうと思われる。この自己超越は、決して超人間を意味しない。カミュは超人間というものを好まないとシャルル・ムレーも指摘している。それは、この世の一切の悪、及び悪の誘惑を拒否して、できうる限り善をなそうと努める意志の結果による全き人間性のことである。そして彼がさらに≪神なき≫という限定を設けるとき、それは、「聖徳が世俗的構造のなかで具象化されねばならぬ」ことを意味しているのである。
結局、リューもタル―もめざすところは同じであった。しかも、リューの立場を説明するに及んで引用したフランクルの言葉に関して、さらに詳しく触れるならば、こういうことが言えるであろう。つまり≪人間である≫と言うことは、自然界に対してのみならず、超自然的世界に対しても心を向けるということを意味している。タル―は、自己を超越せんとしたけれども、いまだ超自然的世界を認めるには至らなかった。自然界にとどまっているというまさにこの点において、二人の目指した人間と聖人という二つの異なった目的は、同じ内容を持つのである。
(つづく)