― タル―の立ち場:(つづき)

タル―が聖人になることを望み、しかもそれに≪神によらずして≫という条件を付加したことは、さらに別の点で意味深いものがある。リューの、すなわちカミュの神解釈は、人間世界とは離れて存在する御方、急場を救う全能者としての神、の域を出ていない。そしてまた、リューとともに反抗を続けたタル―の神解釈も、恐らく同じものであったろう。しかし、「僕が心をひかれるのは人間であるということだ」と言ったリューに対して、「そうさ、僕たちは同じものを求めているんだ、しかし、僕のほうが野心は小さいね」と答えて、人間であることと、神なき聖人であることとが同じであることをみずから指摘したタル―の態度は、言わば≪恩寵の与り知らぬ所に生き、悪の問題に直面したこの世代≫の人間の新しい在り方を示していると言えないだろうか。彼は≪神によらずして≫という言葉で一つの神を否定することによって、もう一つの神、いうなれば、神という名称を捨て去ることをみずから許容された、ある≪存在者≫の姿を垣間見ているのである。後に引用するボンヘッファーの言葉は、このことを理解する助けになりうると信ずる。ディートリッヒ・ボンヘッファー (彼は、第二次大戦下、ナチス・ドイツの手で投獄され、そこでその一生を閉じた)は、カミュとはなんら直接の関わりを持たないが、彼もまた、カミュとおなじように、神なき世界の矛盾と、そこに生きる人間の苦悩とを痛感していた:

「現に威力を持っている仮説としての神を使用することなしに我々をこの世で生かしめている神は、我々が以前からその前に立っている神である。神の前で、そして、神とともに、我々は神なしで生きている。神は御自分が、この世からしめ出されるのを容認なさっている。そして、そのことが正確に言って、神が我々とともにあり、我々を助けてくださることができる唯一の道である」
「キリスト教徒は、苦難のなかにある神に連なる。それが彼らを異教徒達から区別するゆえんである。『あなた方は、ひと時も、わたしとともに目をさましていることができなかったのか』と言われたゲッセマネのイエスの問が,この消息を語っている。そして、これは宗教的人間が神から期待することとは、まさに正反対のことである。人間は、神なき世界の手中にある神の苦しみに参与することを求められている。それゆえ人間は・・・「この世の」生を生きなければならず、かくして神の苦難にあずからなければならない。・・・キリスト者であるということは・・・それは人間であることである。キリスト者をキリスト者とするものは、何かある宗教的な行為ではない。それは、この世を生きつつ、神の苦難にあずかることである」

この考え方は、タルーの≪神によらずして≫聖人になろうとした意識の裏にあるものを説明していると言えないだろうか。タル―自身、そしてカミュ自身、こういったボンヘッファー的解釈を意識的には持っていなかったかもしれない。しかしみずからは知らずして≪神なき世界の手中にある神の苦しみ≫に参与していたと言うことも許されるのではなかろうか。たとえ、人間が神を、人間の理性でとらえることはできなくても、それによって神の究極的な実体が変わることはないのである。ボンヘッファーとカミュとの違いは、不条理な生の現実に神を見出すか否かにあり、具体的な行動においてはほとんど相違はない。両者の相違は、この世の人間の苦悩をみずから身を以て体験したか否かに起因する。カミュは他人の苦悩に無関心でいることはできなかったがゆえに苦しみもした。しかし、ボンヘッファーは、実際に肉体的、精神的極度の苦悩をナチスの収容所で体験しており、その体験のうちに一つの啓示を得たのである。すなわち、神なき世界の手中にある≪神の苦しみ≫ということの発見である。しかし、カミュはいまだ≪神なき世界の苦しみ≫をしか感じていなかった。

タル―は第三の範疇 ーつまり本当の医者という範疇ーから、あらゆる場合に犠牲者の側に立つことに決めるのである。犠牲者の側に立ち、その苦しみをともにしつつ、心の平和を探し求めていた彼は、ついにその苦しみのなかに生命を落としてししまう。彼の死は一人の殉教者の死と言えるであろう。
タル―はculpabiliteの殉教者であり、リューは他人の苦痛における連帯の殉教者である。二人とも、一種のキリストなき十字架の道を生きているのである。彼らは≪幸福の宗教≫の≪世俗的殉教者≫である(シャルル・ムレー)。

(つづく)