~結論~

これまで、『ペスト』における幸福の問題を見てきたのであるが、そこに私としては、なんらかの宗教的な性格を認めることができた。≪宗教的≫とはいえ、それは≪世俗的≫ということの反対の意味を持つものとしてではなく、すでに述べたとおり、≪精神のすべての機能における深みの次元のもの≫として、考えた上でのことである。したがって、≪宗教的である≫ということは、≪信仰を持っている≫ということを意味するわけではない。このことは、はっきりさせておかねばならぬことである。シャルル・ムレーは、カミュの幸福を≪幸福の宗教≫と名づけ、そしてそれが無宗教的であることを指摘しているが、それは以上のような理由によるものであろう。さらに彼は、カミュの無信仰について、次のように述べている:
「カミュの無信仰の中心は、あらゆる≪客観的≫真理の前の猜疑であり、それは真理を見出すことに絶望したため、真理を追究するのに疲れてしまったためである。・・・明白な理性を超えることの拒否は、傲慢さに由来するのではなく、騙されるのではないか、政治的、社会的疎外の犠牲者になるのではないか、という恐れに由来する」と。このシャルル・ムレーの指摘した点は、特に中庸のモラルに従って生きる医師リューの態度にあてはまるようである。

医師リューは、社会における限られた職分を果たしつつ、節度あるやり方で反抗している。おそらく、この物語の中では、タルーよりもリューのほうが、人は永遠のあるいは絶対の解決を熱望せず不完全で相対的な方法で人間を救わねばならぬとするカミュの命令に忠実であろうと思われる。しかし、タル―はリューに、そしてカミュ自身にとり、一つの大きな魅力となっているのである。タル―のなかにこそ、大いなるものに向かって歩み続けるカミュの希望と光とを見るべきである。

医師リューは、「幸福を断念したのか」というランベールの問に対しても、また、「なぜ自分が愛する妻から離れて、こうしてペストのなかにとどまっているのか」という自己の問いに対しても、答えることができないでいる。彼はただ、この世の悪や苦悩に対して、人間は一致団結して戦わねばならぬことを確信し、タルーやグラン、ランベールらとともに、闘争を続けるのである。しかし、彼はまた、絶対的勝利などありえないことを良く知っていた。ペストとの戦いは際限なく続く敗北であり、勝利は常に一時的のものであることを知りながら、不断の闘争を続けること、そこには矛盾に満ちた苦しみがある。永遠なるもの、絶対的なるものは、こうした矛盾に満ちた苦しみのなかで、人間の心に燃え上がるノスタルジアなのである。「未来のノーベル賞受賞者(カミュ)が神なき世界の不条理というものを公言していたその熱情の裏には、神に対するなんらかの郷愁が隠されていたのではないか、と1952年のカミュとの論争で、サルトルが考えたことは、当を得たことであった」(Ignace Lepp:Atheism in Our Time)。しかし、なお、現実にはカミュは人間の世界に絶対者の介入を許すことができないでいた。彼にとっては、神の存在と人間の責任との間には、避けることのできない矛盾が存在した。彼は無神論者でなければならなかった。タル―はあくまで神によらずして聖者になろうとし、その努力のなかで、心の平和を探し求めた。彼は神は拒否したけれども、リューの母親のなかに投影された一つの超越性を愛していた。カミュもまた、一つの超越的存在を愛しはじめているのである。

カミュ的人間の戦いに絶対的勝利というものはない。それは、彼らが至高の目標をめざし、彼らの戦いはその途上にあるからである。絶対と相対という二つの極の間で揺れ惑うカミュの姿は、目標をめざして闘争を続ける人間の苦悩を表している。P.N. ヴァン・ユイは、幸福の探求におけるカミュの姿を≪前進≫という言葉で表現し、彼の幸福は、その実現のために苦行精神を要求するシャルダン的幸福である、と言っている。確かに、彼は絶えず前進する人間、P. T. de シャルダンの分類に従うならば、第三の範疇に属する、未来に向かって飛躍する人間である。この種の人間にとり、真の幸福とは≪静≫の状態において直接求められるものではなく、よりよくなろうとする努力のうちに、高められつつ見出される、いわば≪動≫的なものである。P. T. de シャルダンは、これを≪生長の幸福≫ ー un bonheur de croissance ー と呼んでいる:
「この観点からすれば、幸福は、我々が求めて手に入れることのできる物体のように、実在するものでも、また、それ自体で価値を持つものでもない。ただ、しるしであるとか、結果であるとか、ほど良く行われた行為の報酬のようなものにすぎない、『努力の一つの副産物である』とA. ハクスレーは言っている。この≪生長の幸福≫は、①内的な自己統一、②自己と他者との結びつき、③大いなるものへの従属、を通して得られるものであるという。つまり、「第一に存在すること、第二に愛すること、そして最後に礼拝すること」なのである。

不条理なこの世界に生きる人間には、多くの不安や苦しみが待ち受けている。それらは、しばしば我々のささやかな日々の幸福をも奪い去ってしまうのである。しかし、とP. T. de シャルダンは言う:
「Ideal (理想)とか Cause (第一原因)とかいったものの中に、発展する宇宙と協力し、自己をその宇宙に同化させる秘訣を、直接あるいは間接に発見したものにとっては、これらの闇も消え失せてしまう。これらの闇を減じたり、破壊したりするためでなく、宇宙的な意味でそれらを拡大し、その意味をしっかり基礎づけるために、存在する悦びと愛する悦びとに立ち返る礼拝する悦びは、その十全さの中にすばらしい平和を有し、また生ぜしめるのである。その喜びの糧となる目的(Ideal あるいはCause)は無限のものである。なぜなら、それは我々をとりまく世界の完成と、段々に融合しあってゆくものだからである。そうして、その事実によって、それは死や堕落の脅威を免れている。結局、それは絶えず我々の手の届く範囲内にある。なぜなら、それを手に入れる最良の方法は、すなわちめいめいがなしうるところのことを、自分に相応しい立場で、できるだけ良くなそうと努めることだからである」

ここでP. T. de シャルダンの用いている Ideal とか Causeという語の意味するところは、≪人生の目的≫ということであろう。それは、すでに第二章のところで触れたフランクルやボンヘッファーにとっては、とりもなおさず≪神≫なのであった。苦難を通しての、あるいは愛においての≪神との結合≫という人生の究極の目的を見出した彼らには、苦悩も、そして死さえもが、一つの意義をもつものとなったのである。かくして、彼らは想像を絶した極度の苦悩のなかにあっても、心の平和を見出しえたのであった。フランクルは、収容所での体験から、「苦悩は一つの意義というものを見出した瞬間から苦悩ではなくなる、丁度犠牲のようなものである」ということを学んだ。もし、世界が無目的的に動いてゆくものであるならば、リューやタル―の緊張と苦しみに充ちた反抗は、如何なる意義を持ちえよう?彼らの反抗と苦悩とが、何らかの意義によって支えられ、そして、戦いを永遠の敗北たらしめぬようにするためには、是非とも、目的(Ideal あるいは Cause)が見出されねばならない。

心の平和を得たいと願っていたタル―は、超越的なものへの郷愁を抱いたまま、この世を去った。結局、タルーの発した問、すなわち、「神なくして聖者になりうるか」という問題、延いては、「反抗の緊張と苦しみのただ中に、平和を見出すことはできるのか」という問題は、この作品のなかでは未解決のまま残されている。タル―を失い、そして今また愛する妻を失ったリューは、友の死体を埋めた男にとっては平和は不可能であり、死の前に敗北したことを認めた。群衆の歓喜の騒めきのなかで、一人静かに苦悩をかみしめているリューの姿は、そのままカミュの姿でもあろう。彼にとって平和がやって来るのはいつの日のことであろうか。カミュは超越、絶対、あるいは永遠といったものに郷愁を抱いてはいたが、いまだ、そこから人生の究極の目的をつかみ出すことができないでいた。おそらく、カミュの苦悩や不安はその点にあったのではあるまいか。

「人間には愛するという幸福だけでなく、礼拝するという幸福も必要なのだ、と P. T. de シャルダンは言っている。この必要性はカミュのそれでもある」(P. N. ヴァン・ユイ)。矛盾にみちた生を同胞との連帯と愛のなかで生き抜こうとしたカミュが≪心の平和≫という第三番目の幸福を得るためには、自分より偉大な何ものかに、その身を委ねることが必要であった、と結論することができよう。しかし、是非とも付け加えておかねばならぬことは、偉大な存在に身を委ねることは、決して闘争の放棄を意味しないということである。真の礼拝は、人間の誠実な闘争を支える力となるであろう。

アルベール・カミュが、1957年度ノーベル文学賞受賞者に選定されたとき、人々は正しくも彼のことを、「我々の時代における良心の問題に光を当てた人」と称した。人生の目的とは、意義とは何か、不条理なこの世界で、人間はどうあるべきなのか。カミュの提起したこの問題、及び前述の一郎の問題は、現代に生きる我々に大きな波紋を投げかけている。幸せでありたいという願いは、我々全人類の願いである。人生の目的、意義を見出すことは、とりもなおさず、この幸福の扉を開く鍵となるものではなかろうか。そして「人間は人生の意義を発明することはできない、発見しなければならないのである」(The Sign, Dec. 1967, p. 13)

カミュのように、緊張と苦しみのなかに生きている人間に許された休息とは、意識のない、深い眠りだけなのかもしれない、丁度、不安と焦燥のなかに生きている一郎のように。『行人』の最後のくだりで、ぐうぐう寝ている一郎の姿は、どこかカミュを思わせるし、また、その一郎を傍らに手紙を綴る友人の姿は、こうしてカミュを見つめる我々にどこか似ている ー
「私が此手紙を書き始めた時、兄さん(一郎)はぐうぐう寝ていました。此手紙を書き終わる今も亦ぐうぐう寝ています。・・・兄さんが此眠から永久覚めなかったら嘸幸福だらうといふ気が何処かでします。同時にもし此眠から永久覚めなかったら、嘸悲しいだらうといふ気も何処かでします」

(完)