~更なるものを求める魂~(続き⑤)

あなたの祝いのパーティー

大切に思っている誰かのサプライズ・パーティーを企画していると想像してみてください。計画を立て、すべてのゲストを招待し、メニューを決めました。あなたは、ゲスト全員が「サプライズですよ!」と叫び、その大切な人がついに登場する場面が待ちきれない思いでいます。その人は、自分の祝いのために整えられたすべてを見た時、自分がどれほど大切にされ、愛されているかを理解するというわけです。

ついに、そのサプライズの瞬間がやって来ました。ゲストの全員が、正面玄関のドアが開くのをワクワクしながら待っています。あなたの大切な人は私道を入って来て、車のエンジンが止まる音が聞こえます。彼女が車のドアを開けると、車内のライトが点いて、持ち物を纏めている様子が見えます。彼女が私道を歩いて来るのを見て、あなたの心は高鳴ります。ところが、突然彼女はいつもと違う方向転換をして裏玄関に回ります。

あなたは素早く裏玄関に回り、彼女を案内します、あなたは陽気な挨拶をして彼女を迎えますが、彼女の方は気乗り薄の笑顔を浮かべています。そして、正面玄関に誘導しようとするあなたの試みは無視されます。彼女は、今は疲れているから、あなたの見せたいものは明日見せていただくことにするわと言います。明日になったら、ゲストは皆帰ってしまい、残ったご馳走はしまい込まれます。そして、パーティーは終わることになります。
 
自分が主役のサプライズパーティーを逃してしまうなんて、なんと悲しいことでしょう!そして、このパーティーを企画した人たちにとっても、なんとがっかりさせられる結末でしょうか。

私たちが「サプライズパーティー」を、つまり、神が日々私たちのために計画されたご予定を逃してしまうならば、神もきっと同じ思いをされるに違いありません。正面玄関に連れ戻そうとされる神の声が聞こえない、あるいは耳を貸さないならば、どれほど神はがっかりなさることでしょう。私たちの周りで起こされる神のご活動を忘れて、日々を過ごす時、神はどれほど悲しまれることでしょうか。神に注目されて、特別な気分にさせてくれるばかりか、生活(人生)をいくらか甘美なのもにしてくださる神の宴を無視するならば、神の御心はどれほど傷つかれることでしょう。

私たちはこれまで、どれほど、自分のサプライズパーティーをのがしてきたのでしょうか?

神は私たち全員に御自分を現わされ、その御業を明かしてくださっているのに、神との出会いを心から望んでいる人はごく僅かです。神との出会いは、私たちの計画や、視点、人としての在り方を劇的に変えてくれるものとなるのに、ほとんどの人は、変化を嫌うのです。でも、変化から身を守ろうとすれば、凡庸に堕するだけです。

講演会で話をするために、国中を旅して回っていますが、キリスト者であるということの最もワクワクする部分、つまり、神を体験するという部分を逃してしまっている人が何と多いことかと驚いています。人々は、自分のキリスト者としての生活の中で、もっと何かを掴みたいとよく言います。彼らは神の声を聞きたい、神の御業を期待しながら生きたい、神だけのために生きたいと願っています。あなたの心の奥底にも、きっと同じような想いがあるのではないかという気がします。そして、このような素晴らしい冒険を始めるカギは、徹底的な従順なのだということに、わたしは気付いたのでした。
(続く)