~教皇ヨハネ・パウロ2世について想うこと②~
かつて私は教皇様の姿勢のトリオ(三重奏)としてその高さ、広さ、深さについて話したことがあります。今ではそこに十字架のディメンションが付け加えられて、苦しみを基調とした奥行きの深いクワルテット(四重奏)をなしていると思います。「フィリポの教会への手紙の中でパウロは『あなたたちはキリストのためにただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむということを恵みとして与えられている』(1:29)と言っています。苦しみは賜物として与えられるものなのです。ですから無益な楽しみはあっても、無駄な苦しみは一つもないのです。
いつでしたか、教皇様に教会の明らかな敗北と見える出来事について報告したことがあります。そのとき教皇様は両手を合わせ、伏し目がちに「私たちの苦しみが足りなかったのだね」としみじみおっしゃいました。それだけでも味わいつくせぬほど意味深いお言葉でした。
サレジオ会の病気の聖者ベルトラミ神父も「サレジオ会に足りないのは働く人ではない。苦しむ人が足りない」ともらしていました。「キリストの苦しみのまだ足りないところを補うために」(コロサイ1:24) 神がお選びになった霊魂には特別大きな苦しみが増し加えられるのですね。これこそ十字架の敗北のみが復活の栄光の勝利に導く、というキリストの神秘の偉大さなのです。
1981年5月13日ファチマの聖母の祝日に一命をとりとめられた教皇様は、毎日毎日をマリア様の取次ぎによっていただく神の恵みの一日として、それを人類のために捧げておられます。「私はあなたたちのために持っているものを使い果たそう、いや私自身を消耗し尽そう」(IIコリント12:15)というパウロ同様、教皇様も私たちのため、身も心も燃焼し尽して去ってゆかれるのでしょう。「子は親の背中を見て育つ」と言われます。それは信仰の世界にも通じます。信仰とはそれを証した先達の背中を見つめてその後につき従う道のことです。その先達たちの背中の最奥に十字架を担うキリストの背中があるのです。その背中を見つめて、今日も教皇様は歩き続けておられます。
「誰でも私のあとについてきたいなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って私に従いなさい」(マタイ16:24、ルカ9:23)。教皇様のご健勝を祈りながら、教皇様の後についていきましょう。(1997年4月18日)
*** *** ***(完)
(2025年10月22日)