<神なき聖人>を目指したタルーについての記述(2024年5月31日/ネコの香り II p.45参照)に関連し、以下のメモを見つけたので、ここに記しておきたい:
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この神なしでという否定性はむしろ「生きる」という肯定的否定性の中に包含されるべきものであって、「生きる」ということがその語句の主文である点に注目しなければならない。今日、人間は、西欧における伝統的精神論においてこれまで仮定されていたような全知全能なる者、目的賦与者、第一原因、あらゆる存在の基盤、絶対者、最高存在等々、例えばデカルトの<神>といったものなしに、立派に生きてゆけるようになったのだ。「作業仮説としての神」、つまり、「急場しのぎの神」といったものなしで、自分自身で生きてゆくというのが「神なしで」の意味することである。ゆえに、ボンヘッファーは、デカルト的有神論から見れば、無神論的立場に立つのであるが、同時に聖書が語る「他人のために生きた人間」、イエス・キリストの生と死と復活の中に新しい作業仮説としての<神>を発見して、その<神>と共に生きることを主張する。いや、イエス・キリストの中に新しい作業仮説としての<神>を発見するというよりは、むしろ、聖書の中のイエス・キリストと出会うということが「神の前に、神と共に」ということなのであって、その出会いのゆえに、あらゆる作業仮説としての「神なしで」私たちは生きることが可能とせられたのだと言うのである。(速水敏彦:”ボンヘッファーのこの世理解”)
付け加えておかねばならぬことは、こういったボンヘッファー的新しい考え方がカミュに影響を与えたのではないということであり、むしろ、その逆であったということである。カミュにとり、伝統的キリスト教の神は、この世の不条理を解決するものとならず、それどころか、カミュの反抗、及び”否定”の対象となっていった。しかし、キリスト教がカミュ的人間から受けた影響は大きいと言わねばならない。
教会がそれまでの伝統的キリスト教の解釈を打ち破り、現実世界に合致した新しい解釈をもたらしたのは、カミュ的体験を共感したためであろう。
神から離れて世俗主義と自律性へ向かう運動は、世俗主義者達が賞賛する為にではなく、神学的な理由の故に認められているのである。即ち、神に依存し、神を必要とするということは、神に対する人間の関係をふさわしく述べたものではないのである。ボンヘッファーは、神のいない世界というものを、与えられたもの、もしくは変えられないものとして受け入れるようにと我々にすすめる。たとえ現代世界に神がいるはずだとしても、神なしで済ませられるこの世を放棄するならば、神は見出されないのである。・・・よりはっきり言えば、ボンヘッファーは、もし宗教が神もしくは神々を人間の必要を満たし、問題を解決する体系として定義するなら、成人した世界においては、我々はもはや宗教的ではありえないと言うのである。(神の死の神学p.185~186)