ー 限界状況における人間の幸福について
第一節:幸福のカミユ的定義
『ペスト』のなかで、カミユが幸福というものをどのように考え、また、どのように追求したかを具体的に見てゆく前に、私は既にP.N. ヴァン・ユイによってなされた、カミユの幸福の『定義』を借用して『ペスト』以前の作品をも含めた、やや総括的なカミユの幸福観について簡単に説明しておきたいと思う。そして、その定義に従って、『ペスト』を具体的に見てゆこうと思うのである。そうすることによって、作品全体のなかで『ペスト』の占める位置、及び『ペスト』にみる幸福観を、いっそうよく理解できると信ずるからである。
カミユが追求した幸福は三種類あり、P.N. ヴァン・ユイの分類によれば、感性的世界との結合の中にある《形而下》の幸福、人間との結びつきの中にある《人間中心主義的》な幸福、及び超越的価値との結合の中にある《形而上》の幸福の三種である。
第一の《形而下》の幸福は、主として『結婚』のなかに謳われている。それは、生そのものに対する悦びであり、自然讃歌的、且つ官能的な悦びである:
「一切を生の悦びにとじこめることはできぬとたとえ知ってはいても、その世界を前にして、ぼくはどうして生の悦びを否定しえよう?幸福になることを恥じることはない。…青春のしるしは、たぶん、ゆきあたりばったりの幸福に対する素晴らしい適応性なのだ・・・ベルクールでは、バブ=エル=ウェドとおなじように、人々は若くして結婚する…三十才の労働者は、既にあらゆる切り札を打ち尽くす…彼の幾つかの幸福は唐突であったし、実りのないものだった。彼の人生にしても同じだった・・・こうした人生は、建設することにはない。焼き尽くすことにある。だから、反省したり、より良くなろうとすることは問題でない。…ここで言わねばならぬことは、大地と美の祭典への人間の入場だ。…そうだ。そこには幸福が空しいものに見えてしまうより高度な一つの幸福がある。…世界は美しい。そして、世界を他所にすれば、救済はまったくない」
カミユはここにおいては、生に対する一切のイデオロギー的、既成道徳的価値と言ったものを放棄してしまっている。生に意義があるとないとにかかわらず、ただ、輝く海辺の太陽、ある日の夕暮れの空の美しさ、夜空にきらめく星々のゆえにでも、生は無条件に肯定されるのである。シャルル・ムレーはカミユの幸福を評して「虚無の感覚が人間の太陽の青春の昂揚と結びつくような幸福である」と述べている。こうした世界、あるいは自然との≪結婚≫を、無垢で素朴な人間の幸福として謳いあげたものの中に、さらに、小説『異邦人』を、幾分特異な存在ではあるが、挙げることができよう。主人公ムルソーは理由もわからずに殺人を犯し、その彼の罪を誰からも真実に理解されることなく死刑に処せられるのであるが、その処刑の間際に彼は、自分は幸福だと叫ぶのである。なぜなら、彼は世界との兄弟のような一致を見出したからである:
「あたかも、この大きな怒りが僕から悪を排出し、希望を追放してしまったかのように、この星としるしに満たされた夜を前にして、僕は初めて世界の優しい無関心に自分を開いた。世界を自分と非常に似た、いわば兄弟のようなものと悟ると、僕は自分が幸福であったし、今でもそうだと感じた」
以上が≪形而下≫の幸福の概説であるが、こうした『結婚』や『異邦人』に見られる青年の生き方は、そのまま、『ペスト』に描かれた大多数のオランの住民たちの生き方でもあるのである。第二の≪人間中心主義的≫な幸福、及び第三の≪形而上≫の幸福については、この章の中心的なテーマとして、第二節に詳細に述べるつもりであるが、要するに、小説『ペスト』は、カミユの持つ諸々の幸福観を、すべて内包していると言えるのである。因みに、『ペスト』の冒頭の部分に描かれたオランの人々の様子を引用しておこう:
「確かに、人々が朝から晩まで働き、さて、それから、生きるために残された時間を自ら選んでカルタに、カフェに、また、おしゃべりに空費する光景ほど、こんにち自然なものはない。しかし、人々が時折はまた別のものの存在をそれとなく感じてもいるような町や国もある。・・・オランはこれに反して、明らかにそんな感知など存在しない町、換言すれば、全く近代的な町である。したがって、この町で人々が愛し合うその愛し方を明確に描くことは、必ずしも必要でない。男たちと女たちとは、愛欲の営みと称せられるものの中で、急速に食い尽くし合うか、さもなければ、二人同士のながい習慣の中にはまりこむかである。」
(つづく)