タル―がTranscendance に対してなんらかの郷愁を抱き、そこに心の平和を求めていたこと、そして、死の間際に、リューの母親によって、それを手に入れたであろうことは、タル―自身の手帳と、リューの客観的描写による最期のタル―とリュー夫人との対話によって明らかであろう。
タル―は、心の平和を、「死のなかで、もうそれが彼にとって何の役にも立たなくなったときに、やっと見出した」とリューは記している。このリューの記述は何を意味しているのだろうか?私が思うに、タルーの死には、二つの解釈が成立する。その一つは肯定的且つ楽観的な解釈であり、もう一つは否定的且つ悲観的な解釈である。前者は、死のなかであっても心の平和を得ることができるということであり、一つの普遍的な幸福を暗示している。タル―やリューをはじめとしたオランの人々の生活は、いわば限界状況のそれである。限界状況の生活と通常の生活とを同列に置いて考えることはできない。限界状況に在っては、通常の生活に見られる一切の夢も希望も奪われているのだから。したがって、幸福というもののあり方も当然異なって来るのである。通常考えられるような、身近な、具体的な幸福から、かけ離れているとき、人々が求め、しかも手に入れることのできる幸福は、普遍的なものでなければならない。すなわち、苦悩も死も凌駕したものでなければならないのである。なぜなら、ヴィクトール・フランクルの言葉を借りるなら、「彼らにとって問題なのは、死を含んだ生活の意義であり、生命の意味のみならず、苦悩と死のそれとを含む、全体的な生命の意義である」からである。
これに反して、後者は、否定的な見方であって、タル―の死は、人間が求め得る幸福の限界を暗示している。せっかく平和を手に入れても、それが死のなかであっては、≪死がもう一つの生を開く≫のでない限り、用いられようのないものである。来生を否定し、「永遠の喜びが、一瞬の人間の苦痛を贖いうる」という考えに反対していたカミュが、タルーの死をもって、一つの限界を表明しようとしたであろうことは当然考えられる。しかし、依然として前者の如き解釈が入り込む余地はあるわけで、そこにカミュ自身の揺れ惑う姿、一つの絶対的な結論を出しえないカミュの姿を見ることができるように思うのである。
神の問題について
カミュの関心は、普遍的なもの、超越的なもの、絶対的なものに対しても、常に向けられていたけれども、それは、決して世俗と切り離されたものではなかった。彼にとっては、「超人間的な幸福はないし、一日一日が描く曲線をよそにして永遠はない」のであり、「具体的な人間とは、普遍的な人間でしかありえない」のである。では、超越的な存在者としての≪神≫に対する彼の反応はどうであったろうか。『ペスト』の中におけるリュー、タルー、パヌルー神父らの言動から、カミュの神に対する意識を探ってみたいと思う。
タル―の率直な質問 ー 「神を信じていますか、あなたは?」に対するリューの答えは否である。しかし、それは、神を問題外として意識の外に放り投げてしまうといった否定的な≪否≫ではない。こういう表現が許されるならば、それは肯定的な≪否≫なのである:
「信じていません。しかし、それは一体どういうことか。私は暗闇の中にいる。
そうしてその中でなんとかしてはっきり見極めようと努めているのです」
こう答えるリューのなかには、神を否定しながらも神を問題にし、神を求めていたと思われるカミュの姿がうかがえるのではないだろうか。もう少しタル―とリューとの会話を聞いてみよう:
なぜ、あなた自身は、そんなに献身的にやるんですか、神を信じていないと言われるのに?とタル―は言った。・・・医師は、それはすでに答えたことで、もし自分が、全能の神というものを信じていたら、人々を治療することはやめて、そんな心配はそうなれば神に任せてしまうだろう、と言った。しかし、世に何びとも、たといそれを信じていると信じているパヌルーといえども、かかる種類の神を信じてはいないのであって、その証拠には何人も完全に自分をうち任せてしまうということはしないし、そして少なくともこの点においては、彼リューも、あるがままの被造世界と戦うことによって、真理への途上にあると信じているのだ。・・・とにかく、この世の秩序jが死の掟に支配されている以上は、恐らく神にとって、人々が自分を信じてくれないほうがいいかもしれないんです。そうしてあらんかぎりの力で死と戦ったほうがいいんです。神が黙している天上の世界に眼を向けたりしないで」
この医師リューの態度は、そのままカミュ自身の態度でもあると解釈できよう。彼は暗闇のなかで、一筋の光を発見しようと努めていた。にもかかわらず、彼が神を信ずることを拒むのは、シャルル・ムレーのいうように、そういった信仰というものが、人生の価値低下をきたすものだからである。リューのように、「あるがままの被造世界と戦うことによって、真理への途上にあると信じていた」カミュは、神を信ずるとは、すなわち戦いをやめることであると考えていたのである。そうすると、彼は、ある特定の神を、つまりボンヘッファーによれば≪急場を救う神≫を信ずることを拒否しているのだ、と言えないだろうか。そういった、「我々の理解や能力が達しうる地点を超えた解答や説明を与えるために存在する神」を信ずるならば、この世の生活は安易な方向へと押し流されてゆくであろう。困ったときには、その≪神様≫を持ち出せば事足りるのであるから。カミュにとり、神は必要なかったのでは決してない。ただ、不条理な生を、人間が戦い(あるいは反抗といってもよい)によって全うするためには、神ゆえに不条理ではなくなってしまうような、そんな安易な神は妨げになるのである。たとえ神が存在するとしても、この世界が不条理であることに変わりはなく、人間は、罪ある者も罪なき者もともに苦しみ、死んでゆくであろう。このことは、パヌルーに関するリューの観察にもうかがわれる:
「一見したところ、彼(パヌルー)は相変わらず平静を保っていた。しかし、一人の少年の死んで行くのを、ながながと眺めていたあの日から、彼は変わったように思われた」
この記述のなかで、カミュの意味するところは「神が存在しても不条理だ」ということではないだろうか。パヌルー神父にとり、最初このペストは説明のつくものであった。ペストはオラン市民の罪に対する当然の報いであり、人々は罪なき犠牲者なのではなく、神の裁きの前の罪人なのである。ところが、無辜の子供の死を前にして、パヌルーの態度は一変する。今や彼にとり、この世界は、神が存在しながら不条理となるのである。
結局、カミュは神の存在を認めないのではない。彼は神の存在は認めるが、神を信ずることと、神の造った世界を信ずることを拒否しているのだ。彼が神を受け入れるようになるためには、≪急場を救う神≫ではない、新しい神の出現が必要なのだと私は思う。
この物語の中で、オランの住民に向かって、ペストは当然の報いであるといって悔悛を迫り、怒りの神を説くパヌルー神父の態度、そしてまた、二度目の説教において、すべてを拒否する羽目に陥るまいとして、すべてを信ずることを選んだパヌルー神父の態度、そして最後に、医師の診察を拒否し、十字架を胸に、一人孤独に死んでゆくパヌルー神父の態度は、果たして真のキリスト教徒の態度なのだろうか。神とは一体何か、キリスト者であるとはどういうことなのか。
こういった神の問題、及び、いわゆる≪宗教≫の問題は、超越とか絶対、あるいは普遍のものに目をむける際に、不可避的な問題であると思われる。
(つづく)