毎朝目が覚めると、ベッドから起きる前にとても短い祈りを唱えます。「神よ、御身にお会いしたい。神よ、御身の声を聞きたい。神よ、御身を知りたい。神よ、御身の後をついて行きたい。そして、今日何が起こるかわかりませんが、御身に肯います」と。毎朝のこのシンプルな委ねる行為が、あなたの神を見る眼を、神を聞く耳を、神を感じる心を、そして、神を受け入れる気持ちを整えてくれるでしょう。これは、神を体験することを期待して生きる方法なのです。
私たちは神のことが良くわかるようになったのに、神の気配に気づいていません。私たちは神秘的なことを、ありふれたものにしてしまっています。自分の規則には念入りな理由付けをし、自分の行動にはもっともらしい理屈をつけます。けれども、魂はもっと豊かな体験を求めているのです。視覚や聴覚や触覚、味覚、嗅覚の限界を超えて、ワイルドな、不思議で、情熱的な場へと導いてくれるような体験を求めているのです。
神に肯う女性は、唯一無二の愛によって引き寄せられ、抱きしめられています。神を体験するのに、次に教会に行く時まで待つ必要はありません。なぜなら、彼女たちは、いつも神の臨在を四六時中身近に感じているからです。ただ生活を送るのではなく、神が少しずつ備えてくださる神聖なレッスンとお約束に挑戦を続けているのです。彼女たちは、神を見ること、神の声を聞くこと、そして、神の平和と喜びに完全に満たされることを「期待」しており、だからこそ、彼女たちは行動し、今の状態にあるのです。
神に肯う女性は、神に正直であることを恐れません。最近のことですが、わたしは疲れ切った、圧倒されたような状態で目覚めました。その不安感がどこから来るのか分かりませんでしたが、振り払うこともできませんでした。神に会いたい、お声を聞きたいといういつもの祈りを唱えながら、わたしは神に、今日こそは神の確たる証拠が心から欲しいのだと、神に正直にお伝えしました。
その後、わたしは台所でお皿を洗いながら、夕食の支度をし、息子の一人とおしゃべりしていました。わたしの注意は息子にばかり向いていて、手は作業のために動いているだけでした。すると突然、もう一枚のお皿に手を伸ばそうとしていた矢先に、シンクに目をおやりと神が仰ったような強烈な印象を受けたのです。そしてシンクを見ると、コップの中に切っ先を上に向けた肉切り包丁が挟まっていました。その時、まさに神がそこにおられたのだと思いました。わたしは眼を閉じ、神に感謝しました。手が深刻な怪我をしなくて済んだことよりも、神がそこまでリアルにわたしの生活に関わってくださっていることに感謝したのでした。
ありふれた日常生活の中で聖なる神を感じることがあれば、あなたの人生(生活)も変わるでしょう。でも、そんな変化を、あなたは必ずしも嬉しいこととは感じないかも知れません。神に肯う女性になるということは、それで急に幸せに生きられると言う意味ではありません。わたしも、最近のことですが、書かなければならないことがあって、取り組んでいました。でも、なぜか、もう投げ出したい、パソコンも捨ててしまいたいと思い、神に叫んでしまいました:「御身はわたしの気持ちを傷つけておられる、もうどうしてよいかわかりません、混乱しています!」と。
(続く)