(今自分の聞いていることは、他のメッセージを通して確認されているか?)
親として、わたしは同じことを子供たちにも期待してきました。わたしは子供たちの知らないことを知っており、彼らの気が付かないことを感じ取ることができます。わたしの言うことには耳を傾けてもらいたいですが、それは、彼らの人生を支配したいからでも、威張り散らすためでもありません。そうではなくて、言うことを聴いてもらいたいのは、わたしが彼らを愛しているから、大好きだから、大切に思っているから、そして、彼らには最善のものを願っているからです。子供たちがもっと若かった頃、わたしの言いつけや制限する理由が分からなくても、彼らには従順でいてほしいと思っていました。彼らはわたしを信頼していましたし、愛していましたから。同じことが、天の御父との関係にも言えるのです。
神と二人だけで過ごす時間を設ける時、神は私たちに語り掛けてくださり、その静かなひと時に神から聞く言葉は、別の時にも響いてきます。神の声に耳を傾け、そのメッセージの意味を思い巡らす。その段階が来たら、あなたはもう次の質問をする準備ができています。
わたしが今聞いていることは、わたしを超えているのか?
神が何かささやかなことをするようにと私たちを促しておられる時、その気があれば、それはできるでしょう。でも、神は、自分だけではとてもできない、例えば、自分の能力を超えているとか、人間の自然な欲求を超えているような、何か大きなことをするようにと呼びかけられることがあります。それは、戦略を練ったり、自分でひねり出したり出来るような何かではありません。神の聖なるご介入によってのみ起こることなのです。自分の力を超えたことを成し遂げる素晴らしさとは、それが神の御業であること、神のみの仕業であることを知ることです。そうして、私たちは神にすべての栄光を帰するのです。
最初の本を書くようにと神が声を掛けてくださった時のことを思い出します。この壮大な人生目標を成し遂げるのだと思うと、それはとてもワクワクするスリル満点のことのように思えました。わたしは自分の名前の入った表紙を思い浮かべました。書店に入って静かに、これわたしが書いたのね、と自分に言い聞かせる最初の瞬間を想像すると、嬉しくなりました。この興奮は、最初の10,000語を書き上げる元気をくれました。すべてが右クリックで順調に進みました・・・連載の一回分を読み終わった編集者の注釈を読むまでは。彼女の行間の詰まった2ページの感想文の最後は、ショッキングな言葉で締めくくられていました、「やり直し」と。
わたしは机の横の床にへたへたと座り込み、カーペットに顔を埋めて叫びました;「神さま、わたしには出来ません。一冊の本を書き上げるなんて出来ません。わたしは何を考えていたのでしょうか?わたしは作家ではないのに。自分の提案でこの出版社をなぜか上手くごまかせた詐欺師です。でも、今では彼らにわかってしまったのです、わたしの本性が、そして、わたしのことを彼らはバカだと思っているのです」と。
神への叫びの中でわたしが何度も繰り返していた言葉に、あなたはお気づきでしょうか?「わたしではない」、「わたしには出来ない」、「わたしはバカだ」と。それがわたしであり、わたしの無能さでした、陳述を、「神は」、「神ならお出来になる」、「神がわたしを呼ばれたから、わたしには備えが出来ている」に変えるまでは。
(続く)