(五つの質問事項をフィルターにかけて実現する)
1.自分が今聞いていることは、聖書と繋がっているか?
2.それは、神のご性格と一致しているか?
3.それは、確かに、教会で聴いている時や静かに学んでいる時のメッセージか?
4.それは自分を超えているか?
5.それは神を嘉するものか?
キリスト者として私たちは寡婦や孤児の世話をしなくてはならないと、神は聖書の中で極めて明確に述べておられます(ヤコブ1:27; 出エジプト記22:22-23; イザヤ 1:17) 。少年たちに出会うほんの数週間前のことですが、わたしは次のような一節を日記につけました:「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まらずに、身を清く保つことにほかならない」(ヤコブの手紙 1:27) 。なぜ、この一節を日記に記す気になったのかわかりませんが、神は御存じでした。わたしが一番目の質問への答えに熟知していることを確かめられたのです。まさに、少年たちを養子に迎えるということは、聖書に符合することでした。しかも、同じ一節で、神は第二の質問に答えておられるのです。神は御自分の特徴の一部を「父なる神」と定義しておられます。わたしは困難な時に、神のことを父のように見ていました。ですから、わたしも、困っている人に対してはそのようでありたいと思っています。
そうした確認はまた否定しようのないものでもありました。神は、孤児たちを養子に迎えたわたしの人生に友人をもたらしてくださったのです。わたしは、夫がそれにもろ手を挙げて賛成するとは思ってもいませんでしたが、神は、受容するところまで夫の心を導いてくださいました。娘たちは、養子を貰って欲しいと頼み、それがお兄さんになる人であることを祈っていました。まるでどこを振り返っても、養子縁組というテーマがわたしをにらみつけているかのようでした。教会で説教を聞いていても、独りで静かに聖書を読んでいても、ラジオで歌を聴いていても、神のささやきすらも、すべてが同じことを訴えているかのように思えるのでした。そうです、この二人の少年を養子に迎えることは確認されたのです。
四番目の質問は、さして考える必要のないものでした。これは、わたしを完全に超えていることだったからです。少年たちを迎えるということは、わたしの想像を超えていました。わたしは姉妹に囲まれて育ち、結婚後に恵まれたのは三人の娘でしたから。少年たちの、それもティーンエイジャーの母親になるなんて、とても自分に出来るとは思えませんでした。五人の子供の母親になるなんて、皆目見当のつかないことでした。三人の子供だけでも、わたしのスケジュールはいっぱいいっぱいでした。あと二人も子供を増やすなんてことが、いったいどうしてできるでしょうか?経済的にも、私たちの能力を超えているように思われました。たくさんの心配が脳裏に湧き上がってきたのは言うまでもありません。少年の一人が娘の誰かを、あるいはわたしを傷つけたらどうしようとか、家族の安定に大打撃をもたらす感情的な大荷物だったらどうしようとか。でも、疑念の陰の向こうにあるのは神のご計画であって、わたしの計画ではないとわかっていたら、やるっきゃないのです。神の御力の中でこそ、それは可能なことなのですから。
最後の質問は、少年たちを養子に迎える決意をするのに、きわめて重要なものでした。何よりもまず、わたしは神をお喜ばせしたいと思っていますが、容易い道を選ぶことは、この特殊な状況の中では信じがたいことなのでした。わたしの最悪の恐れがきっと、この従順の歩みの向こう側に待っているに違いないと思うと、逃げ出して、隠れてしまいたい気分になるのでした。けれども、神の愛は、わたしの心を静めてくださり、神の大丈夫という絶えざる励ましが、正しい方向に導いてくださいました。私たちは神に肯いましたが、それは、その養子縁組に納得したからではなく、神に完全に信頼したからなのです。
(続く)