はじめに
健全な暮らし方の勧めに関する代表的な書物には、野菜のことや、カロリーのこと、腸の浄化、そして、「やるべきこと」と「お勧めのこと」がたくさん書かれていなくてはなりません。
そうしたことについて話すのは苦手なので、わたしの書いているのは、「やり方」ではなくて「したいこと」・・・永続的な変化を遂げ、そうした変化のもたらす結果が犠牲に相応しいものであることを確かめたいと思う、その「思い:したいこと」なのです。
このことを踏まえると、前もっていくつかのことを正直に告白しておく必要があると思いました。
- 健康な食生活に関する典型本というものが好きではないこと。
- これまでの人生で一度も「人参スティック」と言うものを作ったことがないこと。
- 大好物のチーズクラッカーとブラウニーを控えようなんて決して思っていない事。「チーズイッツ」の微妙な味わいを諦めて人参スティックを食べることは、とんでもなく難しいことなのかと、神に尋ねたことがあるほどです。どちらもとっくにオレンジ色になってますからね。それに、水をワインに変えたことのあるお方に、それがそんなに難しい筈があるのかしら?
- このような本を書いて売れるのか自信はありませんでした。でも、「健康になってそれを維持するための自分なりの基準を設けるだけではない、何かそれ以上の動機付けが欲しいと願っている一人の信徒ではあります。
この本を書いているのは、あなたの味蕾を鍛え直すためでも、明日までにあなたをほっそりさせる魔法のダイエットを発見したからでもありません。これを書いている理由、それは、わたしが自分の食生活と体重に長年悩まされてきたからなのです。これまで何度も、「月曜日にまた始めるわ」と言いながら、朝食を摂る時にはもうすでにそれを忘れてガッカリする始末です。そして、巷のうわさでは、わたしの女友達の殆どが、このうんざりするようなサイクルを来る日も来る日も続けているようなのです。だからこそ、わたしは次の5番目の告白をすることにしました: - わたしがこの旅路をスタートしたのは、167ポンド(76Kg位)の時でした。この数字は、とんでもない数字だと思う人もいるでしょうし、あら、素晴らしい数字だわと思う人もいるでしょう。わたしの場合、問題は数字ではなく、精神的に、霊的に、身体的にどのように感じていたかなのでした。自分に正直であるべき時が来たのです。
「わたしの調子どう見える?」という問いに対して、真っ正直に答えなくてはならない時が人生では必ずあると思います。それは、友人とか家族と交わす会話ではなくて、現実に向き合う必要のない真夜中の瞑想に対するものです。
変える必要のあることが自分にはあること、それは分かっていました。でも、それに取り掛かるより、やらない口実を見つける方が楽だったのです。合理的な考えというのは、妙に魅力的だったりします。以下のことをご自分に当てはめてみたら、どうなるでしょうか?:
このことを別にすれが、すべてはOK。
既に充分犠牲は払っているわ。
人生のこの時期には、ご褒美が必要。抱えている問題は後回しに しよう。
聖書だって、このことについては特に悪いとは言っていない。
自分でも本当に変えたいと思ったら、できるけど、今はやりたくないの。
でも、どういうわけか、誰にでも抱えている問題があるのよね。
これがわたしの問題だとしたら、どうしよう?
でも、いくら口実をつけてみても、一向に進展しないのでした、殊に、健全な食生活に関しては。
言い訳をつくって、良心の呵責を覚えながら、今度こそはもっとちゃんとやろうと決意し、その決意に忠実でなかった自分を責め、ついには、物事は変えられないのだと言う事実を認めるということになる、それが人生なのかもしれません。
でも、わたしは、そんな人生のサイクルを送りたくはないのです。
あなたも、そうかもしれませんね。
今手に取ってくださっている本は、何度も試してみたけれど、成功せずに嘆いたダイエット計画に本来必要だった手引きとなるかも知れません。あなたの「思い:したいこと」を見出す助けにきっとなってくれると思います。
この本には、不健康な食習慣を克服したいと願う思いを探り当てるだけではなく、私たち女性にとってとても重要な何かを見つけるカギも含まれています。体重は標準を超過しているのに、霊的な重みは不足している、そんな風に私たちは感じています。この二つのことを纏めて考える、それが、これからあなたが神と共に歩みだす最初の最も重要な第一歩になるでしょう。
そこで思い出すのは、マタイ19章に描かれたある旅路の物語です。ひとりの金持ちの青年がイエスに出会い、掟はすべて守っているけれど、神を探し求めるのに何かが欠けている気がすると話します。「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう?」(20節)と。言い方を変えてみるならば、「基本的に必要なことはやっているのに・・・何かが欠けていると感じるのはどうしてだろう?」と。
そのような微妙な問いに対して、そのような共感を誘う問いに対して、イエスはお答えになります:「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」(21節)。
その金持ちの青年は、それを聞くと悲しそうに立ち去りました。自分を食い尽くしているモノが一つあり、それを捨て去ることができないからでした。彼は富をあまりにたくさん持っていたので、自分の魂が飢えていることに気付かなかったのです。彼は、朝食の卵の白身と果物を脇に押しやり、砂糖だらけの、チョコレートコーティングされたドーナッツでお腹を満たす現代人にそっくりです。血糖値が上昇し、頭痛に悩まされてもなお、ドーナッツを遠ざけることを頑強に拒否する現代人に。
過去の砂糖漬けの生活では、そうしたささやかな喩話を思わせるような個人的な体験があったように思います。
いずれにしてもね。
イエスはこのようなご命令を、金持ちの誰にでも見境なく仰ったわけではありません。イエスは、持てるものを持て余している人に仰っているのです。イエスはこの青年の魂に目をおやりになり、こう仰ったのだと思うのです:「わたしよりも頼りにするモノがあるなら、それを捨て、わたしに従いなさい」と。
何と胸に沁みる考えだと思いませんか?
ふと思いました、イエスはただその金持ちの青年だけを見つめておられるのではない、わたしのことも見ておられるのだ、わたしの心の奥深くをも、と。それは言い訳やごまかしでは隠せない部分なのです。
イエスが私たちに従って欲しいと思われる時、本当について来てほしいと思われる時、それは本気なのです:「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マルコ8:34)。
イエスによれば、得たいならば、捨てなくてはなりません。
満たされるためには、自制しなくてはなりません。
神に本当に近づきたいならば、他の物事から、距離を取る必要があります。
切望を克服するためには、それを神に向け直す必要があるのです。
神が私たちを切望できるように造ってくださったのは、神をもっともっと欲しがるため、神だけを乞い求めるためなのです。切望の矛先を、満たしてくださることのできる唯一の御方に向け直すまで、何一つ変わることはありません。
健康になると言うことは、体重を減らすと言うことだけではないのです、魂の測定をやり直すことであり、それは、霊的に、身体的に、精神的に、変わるためであり、その闘いは、その全分野に及びます。
(続く)