~幸福についての雑感:二十歳の想い~

50数年前の大学時代にある文集に寄せた手記を見つけた。タイトルは:

~幸福についての雑感:二十歳の想い~

 「幸福」について今まで改めて考えることはあまりありませんでしたし、従ってまとまった考えもまだ出来てはいませんが、日々感ずるところを書いてみたいと思います。
 「こうして大学に学び、何の心配もない幸せな毎日を送っている私の幸せを思うにつけ、休む間もなく働き、しかもなお明日を心配なければならない恵まれない人を見るといたたまれない気がする。私も何かしなくてはとつくづく思う」としみじみ語る友の言葉を聞いたことがあります。自分の幸せのみにとどまらないこの姿勢をわたしはとても立派だと思いました。けれど同時にある種の疑問が湧くのを禁じ得ませんでした。この人の言う幸せとはいったい何なのでしょうか。私は慣れぬ土地で、姉とはいっしょだけれども両親と離れて生活し、わずかな仕送りでは足りず、生活に困ってアルバイトをしたりするのは毎月のこと、ずいぶん苦しいと思うこともありました。けれど、それでも幸せと思いこそすれ不幸だなどと感じたことは一度だってないのです。それは、私の苦しみが不幸ということと考え合わせるのにはあまりに小さすぎるのかも知れません。けれど、苦しみイコール不幸と考え,豊かであること、苦しみのないことイコール幸福と考えてしまうことはどんなものでしょうか。他人の苦しみを配慮することは大切です。けれどそれを「不幸」という言葉と簡単に結び付けてしまって自分の幸福と対照し、その不幸に手を差しのべようという姿勢は人間の傲慢ではないかと思うのです。
 又、知的障害を抱えた人、盲人、耳の聞こえない人等、彼等をいわゆる人並にしようとする努力に対して、「あまりに一方的、人並にされようとしている人達の意思は無視されている」と考える人は少なくないと思います。知的障害、あるいはヘレンケラー女史のように三重苦であるために、人間らしい生活の出来ない人に、人間らしい生活を強いて、教育することが当人達にとって果たして幸せなのかという疑問も一応は頷けます。それまで人間らしくない、言わば動物的な本能に任せた生活しか出来なかった人間が、外部から無理矢理に人間の生活を強いられること、あるいはそれまでの生活を知らされて、「ついに人間として」目覚めた時は非常に苦しいと思います。けれど、先ほどの考え方 – 苦しみイコール不幸ではないという – を押し進めていけば、「幸福感」と「幸福」とは違うということになると思います。人間として生まれて来たのに、何かの欠如あるいは故障のために動物のような生活しか出来ないとしたら、当人は不幸などと感ずることなく、ただ楽しく生きていても、それは人間として幸福ではないと思います。私たちは幸福を考えるとき、常に「人間として」ということを忘れてはならないと思うのです。肉体的に恵まれた人達がそうでない人を助けてあげるとき、ただ「人間であること」を目覚めさせるだけではいけないのです。そこをスタートラインとして、人間らしい苦しみを体験することで成長し、人間としての生き甲斐を見つけ、人生の意義をつかみ取ることの出来るよう、そこ迄してあげないで、中途半端なところで迷っていたりしては、それこそ不幸に終わらせてしまうことになると思います。
 この他にもいろいろと感ずることはありますが、なかなか上手に言えないので、ここでは上の二つにしぼって書いてみました。
(1967年7月記)